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合理的な武器と精神的な武器

  • 2006/11/02(木) 17:30:00

 武人として、日本刀は、単なる武器というより、武士の魂が宿る神聖なものとして扱われてきたと思います。織田信長が、長篠の合戦で武田軍に対し、火縄銃の統一運用で勝利しました。しかし、日本では武器の主体はその後も日本刀でした。幕末の戊辰戦争の時の新撰組は、武士の精神を重視していたこともあってか、やはり日本刀が武器の主体でした。火砲を取り入れた官軍との戦いでどちらが勝ったかは、ご存知の通りです。更に、幕末どころか二十世紀の大東亜戦争においても帝国陸軍の将校は日本刀を武器としていました。さすがに、現陸上自衛隊は日本刀を武器とはしていませんが、それ位日本刀は単なる武器というよりも武人の精神的拠り所のような位置づけで扱われていたと思います。
 もちろん過酷な戦場で勝ち残るための精神を鍛えることは必要ですが、組織の生存のための戦いにおいては、合理的な武器を使用することも必要だと思います。陸上自衛隊の個人装備は、射程300mのライフル銃が主流ですが、将来戦でも射程300mのライフル銃を個人装備とした方が良いのでしょうか。大陸間弾道弾やミサイル搭載無人機のような超長距離の兵器と市街戦のような場で活躍する射程50mもあれば良い程度の個人装備の二本柱になっていくような気がします。

武術と武道

  • 2006/10/28(土) 23:08:52

 前に、古武術紹介というテーマで書きましたが、甲野氏は武道といわず、あえて武術という言葉を使っています。武術というとあくまでも技(わざ)、体裁きといったところに重きを置き、精神的な面についてはあまり重視していないイメージがあります。武道というと、技のような技術的な面と、心のありよう、精神的な修養等が含まれていると思います。甲野氏は、武術を研究しているというこだわりを持っているようです。(もしかしたら、精神面の鍛錬については、謙遜するためにそう言っているのかも知れませんが・・・)
 私は、精神面の鍛錬も肉体的鍛錬と同様に必要だと思います。前に大相撲で露鵬の態度について書きましたが、体力的、技術的に優れ、勝負にいくら強くても精神的な面、徳といったものが磨かれないとどうも粗野な感じで好感が持てません。
 しかし、本当に合理的に勝負に勝つためだけの技術を習得しようと思えば、精神面の鍛錬等不要かもしれません。武道とはちょっと異なる忍術について考えると面白いと思います。

古武術について

  • 2006/10/15(日) 09:49:33

普通私達が歩く時、左足を前に出す時は右腕を前に振ります。たまに、○○大会入場行進とかで緊張して右手右足が同時に出たりすると失笑を買います。しかし、かつて日本人の歩き方は、骨格の動きとしては右手右足が同時に出るような動きをしていたそうです。敢えて言うと「ナンバ歩き」というそうですが、その歩き方があまりにも当然だったので本来は名称はついていません。「骨格の動きとして」と言ったのは、実際に腕を大きく振るわけではなく、むしろ腕は振らずに歩くということです。階段を上る時、上げるほうの足の膝に手を載せて上っていく動作を平地でするような感じです。これについては、武術家の甲野善紀氏が道場を開いて実践し、研究しており、沢山の本も出版しています。
甲野善紀氏の著書 
現在様々なスポーツにも応用され始めているようです。桐朋学園高校のバスケットボール部や、短距離走の末續選手、野球の桑田選手等が良く紹介に挙がります。確かに武道の動きとしては右手右足が同時に前に出るような動きはありますし、農家の人が鍬で耕す動作もそんな動きになります。甲野氏によるとこの動きは無駄が無く、ためを作って力を出す通常の動きに比べると素早い動きになるそうです。私もよく歩き方を真似していますが、手ぶらだとチョッと見 不自然で恥ずかしいので、両手に荷物を持ったり、ポケットハンドにしたりして、さりげなく試しています。やってみると体が動く軸が確かに通常の歩き方と違うのが実感できます。

相撲と人格

  • 2006/07/29(土) 18:20:00

 名古屋場所は、朝青龍の優勝で終わりました。また、外国人力士の優勝だったので日本人力士にもう少し頑張って欲しい所です。千秋楽で朝青龍に勝った白鵬の横綱昇進は見送られ、大関復帰を目指す雅山も来場所の様子を見ることになりました。本当の実力があれば来場所も好成績を挙げることができるでしょう、ということのようです。
 ところで、今場所、千代大海と露鵬の一番の後、いざこざがあり、露鵬が毎日新聞の記者に乱暴をしたことで3日間の出場停止になりました。元々の原因は、千代大海が格下の露鵬から張り手を受けてそれに対する文句が発端とのことです。確かに張り手という技はあまり品の良い技でなく、また、張り手ばかりにこだわると脇が甘くなる弊害があります。大相撲の解説者も奨励はしていません。とはいうものの反則という訳でもありません。ボクシングは相手を殴り合う格技で当然相手の顔も殴り、褒められこそすれ文句を言われる筋合いのものではありません。外国人力士にとって張り手の微妙な位置づけが分かりづらいのではないでしょうか?ボクシングで相手の顔を殴るのと同様一つの技として認められ、反則でもないのであるから何時誰に対して張り手をしても何ら責められるいわれはない、と思っているのではないでしょうか。
 日本のスポーツでは、ただ勝てばよい、というのでなく、どうしても一流の選手には人格的にも優れたものを求める傾向があります。W杯のMVPに頭突きで退場になったジダン選手が選ばれましたが、日本であればプレイの良し悪しだけでなく品行も併せて評価されるのではないでしょうか。武道は「礼に始まり礼に終わる」と言われるくらい礼儀を重んじます。相手と戦う競技であればこそ相手を尊重するのだと思います。武道ではありませんが、野球も外国人のベースボールに比べると、日本的な礼、しきたりが尊重されているような気がします。グラウンドでの練習の前後にグラウンドに礼をするチームもあるくらいです。日本に来て百年もたったスポーツなので日本の文化の色に染まりつつあるのではないでしょうか。いずれにしても、運動であれ、学問であれ、一芸に秀でた人には品格も求められるのが日本の文化の一つでしょう。

武士道について

  • 2006/06/04(日) 13:40:00

 息子を剣道の稽古に連れて行きました。小学校1年から始めて3年目になります。技も重要ですが、心の面の修養もできる所が武道の鍛錬の良さです。息子が習っている所では「修養訓」と言うのを全員で唱えており、「剣は心なり」のフレーズから始まります。私も子供の頃から高校まで剣道を習っており、大学時代は合気道をやっていたので武道における心身の鍛錬の重要性を理解しています。
 武士道と言えば新渡戸稲造の書かれた本が有名ですが、何故日本で武士道が芽生えたのでしょうか。日本刀という武器を常時携行した武士は、これを乱用してはならないと言う戒めがあったのも一つでしょう。しかし、やはり武士の生き様というか死に様というか死生観を確立する必要性があったのだと思います。自分の一つしかない命を何に使うか(捧げるか)という使命感とも言えます。「義」「忠」「勇」等はまさにこれを表しているのでしょう。西洋の騎士道も似たものかもしれません。


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