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リサイクルについて

  • 2006/12/31(日) 10:00:00

スーパーやコンビニで商品を袋に入れず持参のバッグに入れて持ち帰るのが、環境にも良いと奨励されていますが、昔は買い物籠で八百屋や魚屋に買い物に行って、古新聞か何かで大根等の商品を包んで渡されました。豆腐なんか最初から包装されておらず、鍋かボールを持参して入れてもらっていました。よその家に贈答品を持っていく時は、風呂敷を使っていたし、余計なゴミの出ない生活を送っていたと思います。江戸時代に遡れば、町民の糞尿を近郊農家が買い付けに来て、これを畑の肥料として使い、それで育てた野菜を町に売りに行く、といったことも行われていました。衣服も何度も縫い直して使っていたようです。日本にはリサイクルの文化、もったいないの文化が昔からあったのでしょう。
 ところで、現在、古新聞は、資源ゴミといって、市町村が回収しこれを再生し、資金の足しにしているようですが、古新聞の回収の日には、怪しげなトラックが早朝から廻り、先に回収して問題になっているようです。古新聞を出す側としては、いらないゴミとして出しており、市町村から回収に伴う代金を頂戴しているわけでないので、先回りして回収する業者が、どんな罪を犯しているというのかよく分かりません。むしろ、市町村が資金の元となるものを只で回収していることの方が問題なような気もします。昔は、「くずや~、おはらい」と言いながら古新聞や屑を買い取っていた業者がいました。分銅の付いた棒を吊り下げて重さを量っていた記憶があります。資源となるものを回収するのであれば、金を支払ってでも回収しても良いような気がします。
現在は、パソコン等電気製品が不要になったときは、金を払って取りに来てもらいますが、本来は逆ではないのでしょうか? 捨てる人の方が多く、たいした儲けにもならない屑の買い付けをする人は少なく、バランスが取れないからそうしているのでしょうか?
 田中角栄さんが首相の頃、「消費は美徳」等と言われましたがその頃から何か変わってきたような気がします。

プリンタのインクカートリッジ(「生産消費者」の続き)

  • 2006/12/30(土) 10:00:00

先日年賀状の印刷をしていたら、インクジェットプリンタのインクが切れたので買いに行ったら、詰め替え用のインクが15mℓ入りの小さな容器に入って売られていました。常々、インクをカートリッジごと買って交換するのは、もったいないなと思っていたので、早速詰め替え用の方に手が伸びました。よく見るとメーカーはプリンタのメーカーとは別の会社でしたが、安くて使用可能なら問題ないと思って買うことにしました。買うときに、店の人にどうやって詰め替えるのか取り扱いを聞くと、説明した後に「詰め替え作業をユーザー側が負担することでその分、割安となっています。」というようなことを言われました。それって正にアルビン・トフラーの「富の未来」で出てきた「生産消費者」だ、と感じました。別に、商品の取り扱いを聞いただけなので、店員さんがそのような発言を敢えてする必要はない状況だったのに、もしかしたらその店員さんも「富の未来」を読んで言いたくなったのかも、と余計なことまで考えました。トフラーは、銀行のATM導入により、窓口業務の銀行員の手間をユーザー側にさせ、その分の労働力はユーザーが負担する、つまり、金銭的には計上しにくい富を生産している、という様な例を挙げ「生産消費者」という用語を作り出しました。眼からうろこの発想ですが、でも行動そのものは第三の波に関係なくむしろ、ずっと前の時代からなされていたのではないでしょうか?
 リサイクルやエコ○○等も似たような感じがします。

年末ですね

  • 2006/12/29(金) 14:35:15

12月に転勤で引っ越したため、暫くブログに手をつけていませんでした。そうこうしている内に、あっという間に年末になってしまいました。年末というと、よく言われることで、この1週間で、クリスマスを祝い、大晦日に除夜の鐘を聞き、元日に神社に初詣をする、という日本人の宗教観があります。これについては、以前「日本の宗教について」で触れた通りです。
 ところで、正月には、注連縄や門松・松飾等縄を使った準備をします。縄は藁から作りますが、藁という米作の副産物は非常に重宝なものでした。家の屋根に使用したり、壁土に混ぜたり、畳に使ったりと、「住」の文化に役立ったり、レインコートである蓑や草履・草鞋といった履物等「衣」の文化に役立ったりしていました。「富の未来」というアルビン・トフラーの著書に「生産消費者」という用語が出てきますが、正に、日本のかつての農民は、自分で「衣食住」まで生産してしまう「生産消費者」だったと言えるのではないでしょうか。

年末ですね

  • 2006/12/29(金) 14:30:38

12月に転勤で引っ越したため、暫くブログに手をつけていませんでした。そうこうしている内に、あっという間に年末になってしまいました。年末というと、よく言われることで、この1週間で、クリスマスを祝い、大晦日に除夜の鐘を聞き、元日に神社に初詣をする、という日本人の宗教観があります。これについては、以前「日本の宗教について」で触れた通りです。
 ところで、正月には、注連縄や門松・松飾等縄を使った準備をします。縄は藁から作りますが、藁という米作の副産物は非常に重宝なものでした。家の屋根に使用したり、壁土に混ぜたり、畳に使ったりと、「住」の文化に役立ったり、レインコートである蓑や草履・草鞋といった履物等「衣」の文化に役立ったりしていました。「富の未来」というアルビン・トフラーの著書に「生産消費者」という用語が出てきますが、正に、日本のかつての農民は、自分で「衣食住」まで生産してしまう「生産消費者」だったと言えるのではないでしょうか。

忍術と武道

  • 2006/10/31(火) 17:30:00

 前回の続きです。忍者が敵の情報を依頼者に提供するためには、まず、敵地から見つからずに帰還しなければなりません。もし、敵に見つかった場合、追っ手から逃れ、生き延びて帰還することが必要です。最悪な場合、敵と一戦を交えるかもしれません。しかし、この時は、情報を持って帰るためには負けるわけにはいきません。刺違えもだめです。生き恥を曝さぬ死の美学なんか関係ありません。例え見苦しかろうと、情報を持ち帰るため、なんとしてでも敵の攻撃を防ぎ、相手にダメージを負わせ、生きて帰還しなければならないのです。ある意味非常に合理的な戦いが求められています。同じ戦いでも武道とは異なります。忍術のことを忍道とは言いません。武士が領地の農民・町民の上の立場で治めるため、徳が求められていたのに対し、忍者は陽の当たる所で脚光を浴びるような立場でなく、一般町民等とは接触の無い日陰者であったのも関係あると思います。
 しかし、その反面、忍者の戦い方は勝つことのみに関しては合理的と言えるのではないでしょうか。多少卑怯な手を使おうが関係なく、遠間から手裏剣を投げたり、煙幕を使ったり、自分が生き残れれば何でもありです。そんな忍者の使用していた刀は、切るというよりも突く方に重点があったといわれています。確かに、相手が鎧兜を着ていても突くのであれば、喉や脇等少しの隙間からでも致命傷を与えることが出来るような気がします。こう考えると武器のあり方も考えると面白いと思います。


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