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全≒無

  • 2006/09/18(月) 08:35:00

 全部というのは、無に似ています。決してイコールではないけれど、似ています。いきなりそんな事言っても何の事?と思うでしょうから例を挙げます。もし、学校のクラスで全員が「小泉」という苗字だったら、そのクラスの子は友達を呼ぶ時きっと「小泉君」と言わずに、下の名前かあだ名などで呼ぶのではないでしょうか。つまり全員が同じ苗字であれば、それは他人と区別すると言う観点では意味を成さなくなってしまい使われなくなってしまいます。結局、無いのと同じではないのですが、無と近い感じになります。「足利」も「吉良」も「今川」も「新田」も「武田」もみんな「源」だけど、源氏の中で区別がつかないのでその地名等で区別するようになったのではないでしょうか。
 別の例を挙げます。もし、「テキストの○○から●●の範囲が試験で出ますよ。」と言われたとき、非常に勘がよくて試験の出題を今まで相当の確立で当ててきたA君が、「きっと、これとこれとこの問題が出題される。」と言って、また、テキストの要点をつかむのに長けたB君が「○ページの◇◇と△ページの■■と・・・これが出るよ。」と言ったので、「これは良い情報だ」と思ってその二人の言った所をチェックすると結局示された範囲全部だったとします。試験で出題された問題が二人の言った所から出ていたとしてもその情報はあまり有難くありませんね。全部は無いのと変わらなくなってしまいます。
 日本人は全体を気にするのではないでしょうか。「みんながやっているから」と言って他人と異なることをせず同じことをしようとしたり、会議では満場一致が最高によい結論と思っていたりするのが大勢を占めているように思います。
 他方欧米では、以前にも書いたとおり「個」を中心に考えられているようです。物事を善悪、プラスとマイナス・・・と二分していきます。灰色があっても、やや黒味がかっているから黒とか、無理やり白か黒のどちらかに分類するくらいはっきりさせたがるのではないでしょうか。宗教に関しても、欧米では神と人は別物で絶対的な神と原罪を背負った人の二つに分ける宗教観です。日本人は「泥棒にも三分の理」で心底からの悪人はいなく、程度の差はあるけれどみんな良心をもっていて何かの理由で悪事を働いたんだろう。とか、木や石、山等自然のもの、人も含めて全てのものに神様、仏性が宿っていてこれを崇拝したり感謝したりする宗教観があると思います。
 どちらが良いとか悪いとかではありませんが(既にこの考え方が日本的?)、私個人的には、万物は二元論ではなく両極端でない双方の特性を併せ持った中間的なものが全体を占めていると思います。二元論は全体を無理に二つに区分している近似値でしかなく、しかも、全体は本当は一つで、本来「善」だけどチョッと力及ばず悪があるように見えたり、光がチョッと届かなくて闇があるように思えるけど、本来闇は無く、闇と思われるところにも光が届けば明るくなってしまう。人間も良心、仏性を磨いていけば最終的には仏様になれる。という考え方がスッキリと得心できます。もしかすると日本人は、天地万物全てのものに神様が宿っていると心の奥底で認識しているのに、全≒無で逆に神が無いように勘違いして無神論に思われているのかもしれません。
 二元論者が全体論者になると戦争は無くなるのではないでしょうか。「文明の衝突」でなく日本の文化は「衝突しない文明」です。

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