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成人の日と元服

  • 2011/01/10(月) 10:13:52

今日は成人の日です。満二十歳になったら法的に成人ということでこれを祝う日です。
江戸時代以前は元服という儀式がありました。こちらは年齢は明確に定まってはいなかったようです、
でもだいたい数えの十五歳前後が多かったようです。今の中学生くらいですね。
元服では髪型を月代にに変え、名前を幼名から実名に変えました。
(例:牛若丸→義経)
名前にもその家代々の文字があるようで、織田家の「信」、毛利家の「元」等がその例です。
髪型の方は、月代(さかやき)になる訳ですが、時代劇とか見ていて何故あのような前頭部から頭頂部にかけてを剃り上げるのか不思議に思った方はいませんか?
私は、子供のころ「きっとあの髪型を考えた人は、ハゲ頭の権力者で、自分だけが髪のないのが悔しくてみんなにも剃らせたのでは」などと想像していました。
中学の頃戦国時代のドラマで兜を取った場面で、髷を結っておらず、カッパのような頭で周りの髪が肩までかかるような髪をしていたのを見て、「きっと、兜をかぶるとき安定し、蒸れないために頭頂部を剃ったのだな」と思いました。髷の方は、「ザンバラだとみっともなく邪魔なので髷を結って頭のてっぺんに乗せたのだろう。」と思いました。
そう考えると、元服で大人の仲間入りした若武者は、戦いで兜をかぶるため月代を剃ったということが納得がいきます。
では武士以外の町民や農民も元服で月代を剃ったのでしょうか?
武士にならって剃った人もいれば、兜や冠をかぶる必要がないのでそのまま髷だけ結った人(今の力士のような髪型)もいたのではないかと思うのですが、確信はありません。
詳しい人がいたら教えて下さい。

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建国記念の日

  • 2007/02/10(土) 19:00:00

 2月11日は建国記念の日です。今年は皇紀2667年なので、2666年前の2月11日に日本の国が設立されました。では、2666年前の2月11日に日本の国に何が起こったのでしょう? 実は、初代天皇である神武天皇が即位され、橿原の地(現在の奈良県橿原神宮の付近)に都を築いた日です。古事記、日本書紀に書かれていることを基準に決められたようです。
 今年は亥年で、十二支の一番最後です。十二支とは別に十干(甲乙丙丁戊・・・)があり、これに木火土金水を当てそれぞれに兄(え)と弟(と)を当てています。今年は、丁(火の弟(ひのと))です。この十干十二支を組み合わせて年を数えます。一番初めが甲子(木の兄(きのえ)ね)です。甲子園はこの「きのえね」の年に作られました。戊辰戦争とか庚申塚などもこの組み合わせで表しています。これを干支(えと)と言っています。この十干と十二支の最小公倍数が60年で一周し、元に戻ります。これが還暦です。
 この表し方で、古来「辛酉(かのととり)」の年に大きな変革があるといわれており、また、辛酉の年でも1260年に一度最大の変革があるといわれています。今から2666年前の皇紀元年の年が正にその辛酉の年に当たるということで、日本の国の始まりの年と考えられたようです。現在の天皇陛下が125代ですので、一代当たり平均21年少々で平均するとさほど無理のある年数ではないようですが、神代の時代の天皇の代が百年以上になったりするようで、科学的に2666年前に神武天皇が即位したことが証明されてはいないようです。しかし、これほどの長い間、万世一系の天皇が続いているという国は世界中のどこを探しても見当たりません。日本国民としては、これを素直に喜び、建国記念の日を祝うべきだと思います。

明治維新と弥生人(?)の台頭の比較

  • 2006/11/09(木) 18:00:00

 江戸時代の日本人と今の日本人を比べると、食生活の相違で骨格も大きくなっているし、海外からの移住者も増大しています。百年前の東京と今の東京では、外人の数は格段に違うでしょう。地方都市でも同様です。でも、2000年後の日本人に、日本は明治以降、欧米文化をもたらした新たな人種により征服された等と言われたらどうでしょう?
 確かに、江戸時代までの文化と異なる文化が、明治以降海外から流れ込んできました。そして、日本人とは異なる人種の人が日本に住むようになりました。更に、そのような人達との混血も進んでいるでしょう。言葉も外来語の流入は膨大です。発音も多少変わってきています。また、江戸時代までと明治以降では統治機構も変わりました。でも、それは、海外からの人が日本を征服して新たな文化を築くのとは違います。
 縄文時代と弥生時代もそのような関係ではないでしょうか。つまり、縄文時代末期に、大陸から稲作文化や鉄器等高度な文化が流れ込み、そしてそれを伝える大陸からの人も日本に来ました。それで従来日本に居た人たちはどんどんそれを取り入れて行きました。また、大陸から来た人たちも住み良い日本に定住して行きました(大陸では戦国時代で難を逃れて来た人たちも多く居たことでしょう。)。言ってみればそれだけの事のように思います。また、日本列島の北端の北海道と南端の沖縄が原日本人の特徴を残しており、近畿地方を中心に弥生人的要素の強い人たちが分布している、ということを根拠とする渡来の弥生人による征服説についてですが、これも当時の為政者、権力者の周辺に渡来人が集まって来ただけと考えれば、征服云々ということにはならないと思います。一頃、騎馬民族が農耕民族日本を征服したといった説がはやったことがありましたが、日本には騎馬民族的な特徴を残すものは何一つ無く、この説は今は廃れていると言って良いでしょう。(参考:「騎馬民族は来なかった」)
これと同じようなものではないでしょうか。

弥生人が縄文人を征服したのか?

  • 2006/11/07(火) 18:00:00

前回、弥生式土器を使用していた人たち、弥生人が、大陸から来て原日本人である縄文人を征服したという説に疑問を呈しました。今回はその続きです。
確かに、縄文時代には稲作が無く、弥生時代頃から稲作をするようになった、というのは時代的に大きく間違っていないでしょう(ということは、縄文土器の縄は藁ではなく、蔦の類だったのでしょう。)。そして、稲作は日本独自で発達したのでなく、大陸等からの伝来であることも正しいのでしょう。
 しかし、しかしです。だからと言って、稲作文化をもたらした大陸の人が弥生人で、縄文人を征服した、ということにはならないでしょう。稲作文化が大陸からもたらされた時、当然大陸の人も日本に来たでしょう。そして、元々日本に住んでいた人達と混血が進んだことも十分考えられることです。また、時の為政者は、新しい文化に興味を持ち、渡来人を近辺に置いたり、我が娘と結婚させたりもしたかもしれません。でも、それは、大陸の人が元々日本に住んでいた人を征服して、新たな文化を築いたことにはなりません。
明治以降の日本を考えて見ると似ているかもしれません。

縄文時代と弥生時代

  • 2006/11/05(日) 17:12:24

 縄文式土器と弥生式土器というものを小学校の時に習いました。縄目の模様の入った土器が縄文式土器で、縄文式土器よりも薄手で高温処理するようになった土器が弥生式土器です。縄文式土器を使っていた時代を縄文時代と言い、弥生式土器を使用していた時代を弥生時代と言っています。
 ところで、最近そのためか、縄文時代の人を縄文人と言い、弥生時代の人を弥生人と呼ぶようになってきているようで、良く「縄文人は彫が深く毛深く・・・、弥生人は眼が細く平板な顔つきで胴長・・・」等と言うのを聞きます。その上、弥生人が渡来人とニアリイコールで、縄文人を渡来人が征服したかのような説まで聞きます。また、日本列島の北端の北海道と南端の沖縄が原日本人(縄文人?)の特徴を残しており、近畿地方を中心に弥生人的要素の強い人たちが分布している、ということを根拠に、渡来の弥生人が日本の近畿地方から征服して行き、次第にそれが地方に広がった、という人も居ます。
 でも、私はこれに疑問を感じます。


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